熊野水軍の歴史について
「海賊」。この名前から、皆さんはどんな存在をイメージされるだろうか。彼らはわかりやすい存在であるようで、そのあり方は意外に多様だ。
映画好きなら『パイレーツ・オブ・カリビアン』のジャック・スパロウを思い浮かべるかもしれない。ちょっと戯画化の度合いが強いが、漫画『ONE PIECE』にも主人公ルフィと麦わらの一味をはじめ、多様な海賊たちが登場する。彼らのモデルになったのは、大航海時代に海の略奪者、商人、時には探検家として活躍した人々である。
実は現代にも海賊がいるのはご存知だろうか。有名なのは「ソマリア沖の海賊」だ。交通の要所であるアデン湾を行く船を襲って話題になったが、この 10 年ほどは日本などの対策により被害が激減している。
そして、日本史が好きな人なら、かつて日本各地で活躍した海賊たちのことを思い出すのではないか。彼らは壇ノ浦の戦いや厳島の戦いなど日本史上に残る重大な戦いにもしばしば顔を出し、特に戦国時代には諸大名を海上戦力として支える「水軍」として活躍した。そんな海賊たちの歴史について紹介しよう。
海の上で活動する「賊」としての海賊が日本にいつ頃から存在するのか、はっきりしたことはわからない。 ただ、人々が船で海を渡って移動し、あるいは物を運ぶようになってからまもなく、「ここを通るなら通行料をよこせ」「殺して荷物を奪ってしまえ!」という輩は自然と現れたのではないか。
特に食べ物が得られにくい時期などに、海上で武力を用いる習慣が成立しやすかったろう。
特に 8 世紀になって税(米、布、各地の特産物など)が海路で送られるようになると海上交通がいよいよ発展し、それを狙う海賊も活発に動き出すようになる。
「海賊」の名前が公式の記録に初めて登場するのは 9 世紀前半のことだ。 そして 10 世紀には最初の有名海賊ともいうべき藤原純友【ふじわらのすみとも】が登場する。
純友は時の権力者・藤原北家に属する立派な貴族であり、元々は海賊を討伐する側として京都から伊予(愛媛)へやって来た。実際、当初は海賊鎮圧に活躍したのだが、やがて自らが無数の海賊を傘下に従える大海賊となり、時の中央政府へ公然と反旗を翻してしまう。 純友は同時期に関東で「新皇」を名乗って反乱を起こした平将門【たいらのまさかど】と並んで中央政府に恐れられ、2 人が起こした事件を合わせて「天慶の乱」と呼ぶ。 純友は中央政府の軍勢によって鎮圧されたが、その後も瀬戸内海・九州など西日本を中心に海賊の活躍は続く。 これを自らの基盤として取り込むことに成功したのが伊勢平氏であり、のちの平清盛による平氏政権にもつながることになる。
その平氏政権が倒れた治承・寿永【じしょう・じゅえい】の乱(源平合戦)の際には、熊野湛増【くまのたんぞう】率いる、海辺に住む武装勢力――後世にいうところの熊野海賊が活躍したことがよく知られている。 戦後に成立した鎌倉幕府による統治が安定していた時期には海賊たちの活動も低下するが、幕府が倒れ、しかし後醍醐【ごだいご】天皇による統治もうまくいかず南北朝時代になると、いよいよ海賊が最も暴れたとされる時期がやって来る。
この時期にも熊野海賊は後醍醐天皇の南朝に味方して大いに活躍している。 彼らの活動範囲は幅広く、1347 年(貞和 3)には遠い九州・薩摩に数千人もの軍勢を送り込み、北朝の島津軍が立て篭もる城を攻めたことが記録に残っている。
また、14 世紀から「倭寇【わこう】」と呼ばれる海賊が大陸で活躍するようになった。 時期としては 14〜15 世紀と 16 世紀の前期後期と呼ぶべき時期に分かれ、前期は朝鮮半島、後期は中国大陸が中心のターゲットになった。 日本人海賊による略奪ということでこの名前が生まれたが、実際には当初の段階から現地人がかなりの部分で混ざっていた(日本人は1〜2 割という資料も)とされ、後期になると日本人は 1 割程度であったという。
室町時代・戦国時代は大規模な海賊集団が現れるようになった時代である。 特に有名なのは瀬戸内海で活躍した村上【むらかみ】氏(村上水軍)で、伊予の能島【のしま】・来島【くるしま】、備後の因島【いんのしま】にそれぞれ住んだ 3 家の村上氏による連合体だった。 中国地方の毛利氏が厳島の戦いなど数々の合戦に勝利して中国の覇者になった背景には村上水軍の力が大きい。 さらに織田信長は伊勢・志摩の九鬼【くき】氏(ルーツは熊野別当の家系であるとも)を水軍として抱えたし、北条や武田の水軍もよく知られている。
その一方、この時期は海賊の時代の終わりが見えてくる時代でもある。 陸上の武士たちと同じように、海上の海賊たちもまた、大名の支配下に収まっていくからだ。 彼らのうち力あるものは独自の大名となり、それ以外の多くは大名家の水軍、すなわち海賊衆や警固衆、船手衆と呼ばれるような集団の一員となるか、武力を放棄した庶民にならざるをえなくなり、かつてのように独自性を持って動く存在ではなくなる。 そして 1588 年(天正 16)に豊臣秀吉が出した海上賊船禁止令を大きな画期として、海賊は日本史から姿を消すのである。
あなたのイメージする「海賊」は日々、どんな活動をしているだろうか?
ほとんどの人は、「海を行く船を襲って、暮らしている」と思っているのではないだろうか。
例えば、大航海時代を舞台にするゲーム『大航海時代』シリーズでは海賊として遊ぶことが可能だ。 その場合、船がたくさん行き来しているあたりを自分の船でウロウロするか、あるいはどこかの港の近くで待ち伏せし、船がやって来たら問答無用で襲う。そして相手の船に乗っている積荷や金、船を奪い、近くの港で売り払ってガッポリ儲ける――どうだろう、ちょっとゲーム的に戯画化はされているが、皆さんのイメージする「海賊」の活動にかなり近いのではないだろうか。
あるいは、「海からやってきて陸地の村々を襲う」海賊をイメージする人もいるかもしれない。 漫画『ONE PIECE』の海賊たちはどちらかといえばこちらのイメージが近そうだ。 また、歴史上実在した海賊としては、ヨーロッパを暴れ回ったヴァイキングはしばしば小舟に乗った集団で沿岸の村々を襲い、略奪して去っていったという。
では、日本史における海賊は、このようなパブリックイメージの海賊活動をしていただろうか? そのような側面がなかったとは言えない。 例えば、中世に中国沿岸を荒らした倭寇などは後者のケースにかなり当てはまる(とはいえ、倭寇は日本人以外が主だった時期が長いが)。
しかし、実在した海賊たちの活動は、パブリックイメージとはかなり異なる。 それはフィクションとノンフィクションの違いでもあるし、小さな島国という日本のあり方による違いでもある。 彼らのリアルな活動を見てみよう。
リアルな海賊たちも海を行く船を襲う。 しかし、無差別でも問答無用でもない。 むしろ、海賊の襲撃の前にはコミュニケーションがあり、その結果として襲わないで金銭を得られるケースこそ、海賊にとって理想の状況といえる。 これはどういうことだろうか。
日本史上に存在した海賊たちの多くはしばしば、ナワバリとも呼ぶべき地域を持っていたようだ。 そのナワバリを行き来する船があったなら近づいていく。 そしてここで通行料についての交渉が始まる。この交渉が決裂して初めて、海賊は船を襲う。 逆に言えば、通行料がちゃんと支払われるなら、海賊もわざわざ船を襲ったりはしないわけだ。
面白いのは、この時の通行料が「礼銭」、すなわち通行者が海賊たちに支払う礼として考えられており、さらに海賊の論理の中では「初穂【はつほ】」、すなわち神や仏に奉納するお金や物の名目で徴収されることになっていた――という説があること。 彼らのナワバリ意識のルーツには、「神々に代わってこの地域を管理する」ともいうべき考え方があったのではないか、というわけだ。
では、彼らのような海賊たちに通行料を払わず、安全に海を行くことはできなかったのだろうか。実は可能だった。 海賊を雇うのである。
といっても、冒険物語のように護衛として海賊の船を雇うのではない。 海賊のメンバーを一人雇い、船に乗ってもらうのだ。 この海賊はそこらの小規模な海賊グループの所属ではなく、広範囲に影響力を持つ有力な海賊グループの一員である。彼らが乗っている船は、各地の海賊に襲われることがなく、安全に海を行くことができる、というわけだ。 例えば、瀬戸内海については「東の海賊が乗っていれば西の海賊には襲われないし、西の海賊が乗っていれば東の海賊には襲われない」という不文律があったというから、それだけ広範囲にこのルールが守られていたことがわかる。 このような仕組みができてきたのは、大規模な海賊勢力が登場してくる戦国時代のこととされる。
ちなみに、海賊のメンバーが船に乗って安全を保障するのは「上乗り」と呼ばれる行為だった。これが時代が進むと「免符」「切手」あるいは家紋の入った旗などを上乗りの代わりに、あるいは上乗りとセットで船に乗せるようになる。もちろん、タダではない。 ちゃんとお金を取る。
「いや、海賊に金を払わないと言いながら、実際は(より上位の相手とはいえ)海賊にお金を払っているじゃないか」と言われれば全くその通りで、払い先が変わっただけではある。 とはいえ、そもそも陸地を行く旅であっても、あちこちに関所があって、通行するためには料金を払ったものだ。 海を行くのにも通行料が求められるのは当たり前。 少なくとも、当時の人々にとってはそうだったのである。 実際そのせいで、海賊のことを「関」すなわち関所と同種の存在という意味の名前で呼ぶこともあった。
ただ、このような「ナワバリを行くためにはお金を払わなければいけない」という意識そのものが、次第に薄れていく傾向にあったようだ。となると通行者たちも簡単には金銭を差し出さなくなり、時には抵抗することも増えていく。 鉄砲で海賊を追い払った、という話も残っている。海賊も楽な商売ではない。
時に「海賊」と言い、時に「水軍」と言う。両者を明確に区別することは簡単ではない。例えば熊野を拠点にした海賊たちにしても、「熊野水軍」と呼ばれることもあれば「熊野海賊」と呼ばれることもあるように、かなりファジーに呼び分けているのが一般的であるからだ。
言葉の定義について考える時は、あれこれ仮説を並べたりするよりも、まずは辞書を引くのが良い。『デジタル大辞泉』(小学館)は海賊について、以下の通りに解説している。
「かい‐ぞく【海賊】
1 海上を横行し、往来の船などを襲い、財貨を脅し取る盗賊。
2 中世、海上戦力にすぐれた武士とその集団。北九州・瀬戸内海に本拠をもつものが多かった。水軍。
3 法律用語。公海や公空を横行し、船や航空機を襲って暴行・略奪などする盗賊で、国際条約による取り締まりの対象とされるもの。」
対して、水軍についてはこうだ。
「すい‐ぐん【水軍】
1 水上で戦う武士団。特に中世、瀬戸内海や西九州沿岸で活躍した村上水軍や松浦党が有名。
2 海軍。」
海賊の2はほぼ水軍とイコールと考えていいだろう。ここからも、少なくとも日本の例においては海賊と水軍がかなり近しい意味を持つ言葉であることがわかる。その上で、水軍固有の特徴としては「武士とその集団」「武士団」であること、が浮かび上がってくる。
専門家の意見も聞こう。高橋修『中世水軍領主論 紀州熊野からのアプローチ』8 ページには「水上での戦いに特化した武力を持つ階層が、一揆的に横に連携するか、あるいは戦国大名の上位の権力の元に編成されれば、「水軍」となる。」とある。以上からわかるのは、「海賊」と「水軍」の境目がどうも「まとまっているか」「規模はどのくらいか」であるらしいことだ。単に海上へ縄張りを広げ、行き交う船を脅し、襲うだけでは水軍とは言えない。規模がある程度大きく、軍事力として結束・統率が存在していて、初めて水軍と呼ばれるのである。
ただ、いくら規模が大きく横に結びついていたとしても、古代の中央政府がある程度しっかり統治していた時代の海上武装勢力は「海賊」と呼ばれ、「水軍」とは呼ばれないことが多い。
わかりやすいのは天慶の乱における藤原純友のケースだ。彼の元に集まった海賊たちのことを「藤原水軍」とは呼ばないだろう。あるいは、源平合戦、熊野湛増の頃の熊野水軍のこともあまり「熊野水軍」とは呼ばない(呼ぶとしたら南北朝時代の熊野水軍から遡って同じ系統であると主張するためだろう)。これらの海賊たちは「海上の独立武装勢力」である以上に「時の政府に逆らう海上の「賊」」と言う意味合いで見られるため、「水軍」よりは「海賊」の方が似合っているとみなされるのだと考えられる。
では、「海賊」はどのようにして「水軍」になっていったのだろうか。一部海賊が周辺の海賊を吸収して独立勢力としての「海の豪族」になった部分も大きいだろうし、大名と呼ばれるような有力武家が勢力を広げる過程で陸の武士ではなく海の海賊も支配下に収めていったものでもあるのだろう。
その上で、実はきっかけになったであろうひとつの出来事が知られている。それは室町時代に行われた「遣明船の派遣」である。室町幕府三代将軍の足利義満は南北朝の動乱を終わらせた人物でもあるが、同時に中国大陸の明王朝との間に初めて正式な国交を結んだ将軍でもあった。そして、義満は明との貿易にも乗り出す。中国諸王朝との貿易は「朝貢【ちょこう】」と呼ばれる形式を取った。すなわち、中国に臣従する立場の国が貢物を差し出す代わりに、中国側は褒美を下す、というものだ。これは日本が中国の「下」であることを認めることを意味していたが、同時に朝貢する側にとって非常に分のいい取引でもあったので、義満としてはなんとしても成立させたいものでもあった。
こうなった時に大きな障害になったのが、瀬戸内海や九州の海賊たちだ。彼らによって遣明船が襲われてはたまらない。そこで、海に勢力をもつ守護(各国の統治を担当する有力武士。ここから守護大名が生まれる)や有力な豪族たちに「遣明船を守るように」と命じる。
彼ら自身が海上戦力を持っているわけではないから、自然と元々存在する海賊たちを自分の支配下に組み込み、遣明船を守らせることになる。これがまとまった軍事力としての水軍誕生の大きなきっかけになったとされている。
もちろん、海賊(水軍)たちもタダで大名の支配下に入るわけがない。例えば、安芸守護の武田氏は、支配下において水軍の白井氏に「安芸国仁保島海上諸公事」の安堵――つまり、仁保島という離島(現在は埋め立てられている)を拠点に、通行料を取って良い、と言う許可を与えている。この辺りは大名が陸上の武士に土地の保有を認める代わりに武力を求めるのと同じだ。水軍たちも結局のところは武士なのであり、この点で本項冒頭で紹介した辞典の記述にある「武士とその集団」「武士団」はやはり正しかったと言っていいだろう。
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