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04熊野水軍について

 熊野水軍の発祥と発展について語るには、まずは熊野という土地とそこで受け継がれてきた古い信仰の話をしなければならない。
 世界遺産にもなった「熊野古道」という道をご存知だろうか。紀伊国(和歌山県)南部、古くは「熊野国」と呼ばれた地域にいくつも走っている道の総称で、「熊野三山」と呼ばれる三つの大社(神社)に参詣するためのものだ。熊野地域は三方を海に、中央には峻険な山々が並ぶという地形をしており、田畑を耕して豊かな生活をする……という暮らしには向かなかったかもしれないが、その分人々は簡単には行き来できないこの地に神秘を感じ、崇敬の気持ちを抱くようになったのである。熊野古道が世界遺産になった背景にはこのような事情もあったろう。
 熊野三山はそれぞれ、「熊野本宮【ほんぐう】大社(本宮)」「熊野速玉【はやたま】大社(新宮)」「熊野那智【なち】大社(那智)」と呼ぶ。このうち、本宮と新宮はもともと関係があり、前者は熊野の山と川、後者は海への信仰をルーツとするものと考えられている。那智はもともと独立した霊山であり、修験者の修行の場所として発展していた。しかし 11 世紀の終わり頃になると三山は祭神も同一になり、セットで見られるようになっていく。また同時期、白河【しらかわ】上皇が熊野を参詣して以来、皇族や貴族にある種の「熊野ブーム」が訪れ、たびたびの熊野詣でが記録上に見られるようになる。この白河上皇は政治体制を摂関政治(藤原氏の有力者が天皇と血縁関係になり摂政・関白になることで実権を握る)から院政(元天皇である上皇が「治天の君」として政治を行う)へ移行させた歴史上の重要人物であり、熊野の隆盛は当時の政治とも無関係ではなかったことがわかる。

 一方、熊野三山がワンセットとして認識されるようになったこの時期は、熊野地方の海岸近辺に住む人々にとっても大きな転機になった頃でもあった。この時期、西は四国、東は東海道地方までの広範囲に渡って、悪事を働き物を奪う海賊が現れるようになったのだ。「熊野先達」なる悪僧としても記録に残っている彼らの正体こそ、熊野の海民であった。彼らこそ、のちの熊野水軍(熊野海賊)につながる者たちである。
 熊野の海民たちがこのように活躍できた背景には、熊野の土地が持つ特性があったようだ。この地域はもともと良質の港が多く、さらに船の材料になる材木も紀伊半島の奥深い山の中から切り出してくることができた。海賊を養う基盤があったわけだ。さて、彼ら熊野の海の民にも強い影響力を持っていたと考えられるのが、熊野三山の長官――別当である。熊野の別当は三山の信者たちによって選ばれたわけだが、(名目上かもしれないが)朝廷による補任を受けて正式な就任ということになったようだ。ここにも朝廷と熊野の結びつきを見出すことができる。

 この選び方からも分かる通り、熊野別当職は元々代々相応しい人間が選ばれるようになっていた。しかし 15 代目の長快移行、彼の子孫によって世襲されるようになった。これを別当家(熊野僧綱【そうこう】家)と呼ぶ。別当家はさらにいくつかの家に別れ、特に有力な家として残ったのが 16 代目別当になった長範【ながのり】の新宮家(新宮別当家)と、その弟で 18 代目別当の湛快【たんかい】の田辺家(田辺別当家)である。この両家の政治的対立は、やがて湛快の子・湛増【たんぞう】が時の平氏政権に反旗を翻して挙兵し、熊野水軍を率いていわゆる源平合戦で活躍することへつながっていく――のだが、それについては熊野湛増という男自身について詳しく紹介する記事へ譲ることにしたい。ただひとつ言えることは、田辺の地が古くから海上交通の要所であり、田辺家が熊野海賊を武力として用いることができた事情と無関係ではないだろう、ということだ。

 ともあれ、源平合戦で活躍した湛増は熊野別当の地位を手にし、熊野海賊もまた成立したばかりの鎌倉幕府に公認される存在になった。ただライバルである新宮家もまだ健在で、湛増の死後に別当となったのはその新宮家の人間だった。鎌倉幕府成立移行、新宮家は初代将軍・源頼朝との関係(かつて頼朝の伯母を妻として迎えたことがある)を利用して巻き返しを図っていたのである。さらに田辺家内でも内部対立が打ち続き、その基盤は揺らいでいた。
 そんな中、湛増の嫡男である湛顕【たんけん】ら田辺家の主流派は、当時鎌倉幕府と対立して朝廷に権力を取り戻そうとしていた後鳥羽【ごとば】上皇と接近。彼を後ろ盾にすることで巻き返しを図ろうとする。この試み自体はある程度うまくいき、新宮家や田辺家の非主流派を抑えることに成功したようだ。ところが後鳥羽上皇は三代将軍・源実朝の死をきっかけに、幕府討伐を企んでしまう。いわゆる承久の乱の始まりだ。
 田辺家主流派は当然ながらこの戦いに上皇勢の味方として参加し、その敗北によって主要人物の多くが死んでしまう。では彼らが頼みにしたであろう熊野海賊はどうなったかといえば、少なくとも大規模な戦いに参加したという記録はない。しかし、後日になって「承久の乱の時に熊野海賊たちの船が多く失われた」ことを記す記録は見つかっているので、何らかの形で参加はしたと思われる。ともあれ、承久の乱によって熊野湛増の作り上げた田辺別当家の権勢は終わり、彼を支えた熊野海賊(水軍)の物語もひと段落ということになる。しかし、彼らの活躍はまだまだこれからでもあるのだ。

05熊野湛増について(生涯)

 熊野別当・湛増【たんぞう】。
 史実に残っている彼の生涯を端的にまとめると、「別当として熊野三山をまとめ、治承・寿永【じしょう・じゅえい】の乱(源平の合戦)では源義経に味方して壇ノ浦の戦いに参戦、平氏滅亡に貢献した人物」ということになる。しかし彼については伝説も多く、またその人生においては、世間にあまり知られてはいないが熊野水軍や源平の合戦について詳しく知るために重要な出来事がいくつもあるため、ここで紹介することにしたい。
 まずは湛増にまつわる伝説を追いかけてみよう。最も有名なのが、『平家物語』に記されている以下の伝説だ。

闘鶏を行う湛増と弁慶闘鶏を行う湛増と弁慶

 壇ノ浦の戦いを前にして、湛増は悩んでいた。彼はもともと平氏側と深い関係にあったが、ことここに及んで「今となっては源氏につくべきなのか、いやしかし……」と迷うようになっていたのである(その前に「湛増が源氏についた」という噂が流れたという記述も『平家物語』の中にある)。
 湛増はやはり宗教者であるから、決断を神に縋った。
 父の代に田辺の地に勘定した今熊野という神社に七日通い、御神楽を捧げたところ、「白旗につけ」と託宣が出た、白は源氏の色である(赤が平氏)。ところが湛増はこれでも決心がつかず、次に赤白の鶏を七羽ずつ揃えて闘鶏をやらせた。その勝負で占おうとしたわけだが、結果は白い鶏の全勝だった。ついに源氏の味方をすると心に決めた湛増は 2000 人余りの兵を 100 余りの船に乗せて壇ノ浦へ向かった。その船を見た源平両軍は揃って拝んだのだが、「熊野は源氏に味方した」ということがわかると、平氏側の士気は下がってしまった……。この出来事が伝説として残り、今熊野は闘鶏【とうけい】神社と名を変えて今も存在している。

 また、湛増のことを「源義経の右腕・弁慶の父親」として知っている人ももしかしたらいるかもしれない。これは弁慶が「熊野別当の子」と語られているからだ。『義経記』ではその別当は「弁せう」とされているが、史料の中には弁慶の母方の祖父を「田那部【たなべ】の誕象【たんぞう】」としているものもあって、これは田辺家の湛増のことと考えて間違いない。このような関係性から、湛増と弁慶を親子として結びつける伝説も生まれたのだろう。なお、史実の弁慶の正体はよくわからないし、湛増との関係も定かではない。

 一方、史実の湛増はどんな人物だったのか。別項で既に軽く触れた通り、湛増は熊野の別当を世襲した一族のうち、田辺別当家の出身で、18 代目別当を務めた湛快【たんかい】の子である。なお、この湛快は平治の乱に際して平清盛に味方した人物であり、当時から平氏との関係が深かったことがわかる。
 伝説だけ見ると宗教的でファンタジックな、熊野という神秘的な地域の色合いが強い人物に思えるが湛増だが、実際の湛増はある時期京都に住み、荒くれ者たちを支配下に組み込んで武勇を売りにしており、また平氏の家人を務めていた頃もあったようだ。中央にも、熊野にも、それぞれ足を置いていた人物なのである。
 そんな彼が源平合戦に本格的に関わっていった時期は、実は『平家物語』に記されていたような壇ノ浦の戦いのタイミングではなかったらしい(『平家物語』のある系統の本には、湛増が当初平氏からの恩を優先し、源氏方についた那智【なち】や新宮【しんぐう】の勢力と戦った末に敗れたとあるが、別系統の本では誰がどちらについたかの記述が異なり、信憑性が低い)。
 比較的信憑性の高い資料である『玉葉』によれば、湛増は源頼朝とほぼ同時期の 1180 年(治承 4)8 月半ばに挙兵したとされている。鎌倉幕府公式の歴史書と言うべき『吾妻鏡』ではこの挙兵は源氏の影響を受けてのものとされているが、実際には違ったようだ。では、その動機はなんだったのか。
 湛増が挙兵したのは、主に熊野の中での主導権争いという意味合いが大きかったようだ。別項で紹介したように熊野別当の地位は新宮家と田辺家の間で争われていたが、本家筋というべきはやはり新宮家であって、田辺家は劣勢だった。そこで湛増は平氏政権に対して諸国で反乱の火が燃え上がるのを好機と見て、自分の弟や新宮家といった対立勢力を一掃して熊野別当の地位を獲得するべく、兵を挙げたのである。そう、この時期の湛増は別当でさえなかったので、「熊野別当湛増が平氏に反旗を翻した」と言うのも厳密にはおかしいのだ。

 こうして挙兵した湛増だが、熊野の主流が彼に味方しなかったため、一度は敗れて降伏せざるを得なくなっている。しかし、ここで湛増は田辺という港を拠点にしていることから縁深かった海上勢力――海賊あるいは水軍を用いて、逆転の一手を打った。伊勢・志摩の方面(伊勢平氏の父祖の地であり、比較的守りが弱かった)へ攻撃をかけ、大いに荒らしまわらせたのである。この成功をきっかけに湛増は熊野での発言力を高め、反対派を押し切って主導権を獲得するに至る。しかしまだ別当の地位は獲得できていない。
 熊野の地にある種の独立王国として立ち上がった熊野三山がその後どのように源平の合戦に関わっていったのか。それはまた別項に譲ることにしたい。

06源平合戦と熊野湛増

 源平合戦とその直後の時期、熊野三山とその別当である熊野湛増【くまのたんぞう】は、周辺のパワーバランスの中でどのような位置付けにあったのだろうか。これを見てみよう。

熊野海軍と湛増の位置付け熊野海軍と湛増の位置付け

 そもそも熊野という地域は、当時の日本における海上交通が活発だった地域の中でも、一種独特な位置付けにあったと考えられている。平安時代末期、いわゆる平氏(その正体は伊勢から始まった伊勢平氏)は父祖の地である伊勢・志摩や瀬戸内海の海の民、すなわち海賊への影響力が強く、基盤のひとつにしていた。平清盛が院政期の権力争いに食い込んで中央で勢力を伸ばし、平氏政権を打ち立てた後も、伊勢とのつながりは深かったようだ。
 ところが、伊勢・志摩と瀬戸内海の間に挟まれた地域であるはずの熊野は、全く影響を受けていなかったというわけではないにせよ、比較的自由で、独立した存在であったようなのである。やはり熊野三山という宗教的権威がバックにあったことが大きかったのだろう。院政時代に盛んになった熊野詣でを通して京都とのつながりが深かったことも理由のひとつとしてあるかもしれない。
 ただ、このような自由さも、平氏政権下においては少しずつ息苦しくなっていたようだ。紀伊国南部に対して、平氏の支配が侵入しつつあったのである。このようなパワーバランスの変化は海の民にとっても無関係だったはずはない。つまり、海賊(水軍)を含む熊野の人々にとっては自分たちの生活が変わるかもしれないという重大な危機感がある時代であり、平氏政権に対して反旗を翻すのには十分な理由があった。そこに、個人的事情――父のように別当職を手に入れたかったが、現状では難しかった――から状況の急激な変化を求めていた野心家の湛増とうまく噛み合って、熊野海賊を主力とした挙兵ということになったのである。

 さて、熊野内部での権力闘争に勝ち残った湛増は、平氏打倒のために派遣された源義経の軍勢に合流し、ここで独立勢力から源氏方へ鞍替えする。伊勢や瀬戸内海の海上戦力を基盤のひとつにする平氏方に対して、坂東(関東)の武士団を主力とする源氏方は海上戦力が乏しい。屋島の戦いに敗れた後、西へ逃げて体勢を整えようとする平氏を打倒したい源氏にとって、湛増と熊野海賊は欠かせない戦力だったと言える。湛増はこの頃に念願の別当職への補任を受けているが、これもまた湛増が評価されていたことの証明になるだろう。
 このことを証明する出来事がひとつある。どうも、義経は湛増に一部軍勢を割いて九州へ向かわせ、平氏を挟み撃ちにしようと企んでいたらしいのだ。この計画自体は頼朝に無断で進んでいたようで軍勢内に混乱を引き起こし、結局実現はしなかった。ただ、義経が湛増と熊野海賊にどれだけの期待をかけていたかについて、傍証にはなるだろうと思って紹介した。
 ともあれ、源氏に味方した――この時点での立ち位置は源氏に与したというよりは義経の家人になったという方が実態に近い――湛増は、壇ノ浦の戦いに熊野海賊を率いて参加し、源氏の勝利に大いに貢献したのである。戦後、湛増は義経と結びついて政治権力を拡大させようと考えていたのではないか。しかし、思惑通りには行かなかった。義経が兄・頼朝と政治的に対立し、後ろ盾に頼んでいたであろう後白河法皇からの庇護も受けられず、ついには海へ追い落とされて姿をくらましたからだ(その後、奥州藤原氏の庇護を受けるも裏切られ、死ぬ)。
 ことここに至って進退極まったのが湛増である。
 義経が政治の世界から姿を消してしまった以上、なんとかして頼朝に取り入らなければ、立場が危うい。かつてせっかく補任を受けた別当職についても、義経の失脚とその後の混乱の中で実質的に無効化されていた節があり、1187 年(文治 3)に改めて補任を受けたという形跡がある。

 そこで同年、湛増は頼朝のもとへ贈り物を持たせて「法印【ほういん】の位を与えられたことのお礼」という名目で使者を送った。頼朝との間に改めて関係を作ろうとしたのだが、対する頼朝の返事は「贈り物受取拒否」であった。理由は「荘園などは神や仏に寄進したものであって、別当や神主などに与えたものではない」ということで記録されているが、それだけではあるまい。敵対した弟・義経の仲間であった湛増を簡単に許すつもりはない、という強い意思表示だったと考えるべきだろう。
 その後も湛増は頼朝に対しての働きかけを続けたろう。それが華開いたのは 8 年後、1195年(建久 5)のことだ。湛増は上洛中の頼朝のもとへ赴き、頼朝及びその後継者である頼家との対面を許された。こうして、熊野別当・湛増と熊野海賊は鎌倉幕府の支配下に入り、安定した立場を手に入れたのである。ただ、湛増の死後には内部対立が起き、承久の乱に巻き込まれてしまうのは、別項に解説した通りだ。

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