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07源平合戦以降の熊野水軍

 源平合戦の頃には熊野別当湛増【たんぞう】の元である程度のまとまりを示していた熊野海賊(水軍)であるが、湛増の死、また彼の子孫である田辺別当家の衰退によって、集団としての統制はどうも失われてしまったようだ。鎌倉時代、熊野の海賊たちは「熊野悪党」と呼ばれ、正体の掴みにくい賊集団と見做されていたのである。
 鎌倉時代の終わり頃には熊野海賊の活動が非常に活発化して時の権力に牙を剥くようになり、幕府は瀬戸内海最大の(おそらくは日本でも最大の)水軍である河野水軍を熊野へ派遣しており、また別の資料では 15 カ国の兵を送り込んだともいう。相当に大規模な反乱が起きて、幕府が手を焼いていたことがわかる。理由としては、幕府を主導する北条家が、海上交通の担い手として勢力を広げる海賊たちを弾圧し、拠点になる港などを奪おうとして来たため、海賊たちが反発したことがあったようだ。
 これらの反乱の担い手となったのが、熊野の沿岸各地で独自に発展した、水軍力を持つ武士たちである。この時期から歴史書に名前が現れる勢力として、特に名前を知られるのが久木の小山氏と安宅氏であるが、他にも鵜殿【うどの】氏、色川【いろかわ】氏、泰地【たいじ】氏、塩崎【しおざき】氏、周参見【すさみ】氏、西向浦の小山【こやま】氏などの名前が残っている。彼らはもともと田辺別当家のもとで海上戦力を構成する海賊にルーツ・基板を持つ存在であった。統率者を失ったのち次第に自立化し、ついに鎌倉時代の終わり頃には独立して活動するようになる一方、時には横の結びつきを持って大規模な行動をするようにもなったのだ。

 では、その小山氏と安宅氏はどのように成立したのか。実はそれは先に紹介した鎌倉時代末期の海賊反乱と深く結びついている。
 安宅【あたけ】氏は系図によれば小笠原【おがさわら】氏から分かれたとしているが、これは創作であるようだ。実際にはもともと阿波にいた北條被官で、橘を名乗っていた武士たちと考えられる。一方、小山氏の方は、関東・下野に基盤を持つ同名の有力御家人の一族であるようだ。この両者は同じ 1300 年頃、北条氏あるいは幕府の命によって熊野へやってきて、そのまま定着した。その命令こそ、「海賊の反乱を鎮圧せよ」というものだったと思われる。
 ところが、久木の小山氏にせよ、安宅氏にせよ、海賊を打倒するのではなく溶け込む道を選んでしまった。実態は多様だったようで、小山氏の方はもともと現地に存在した久木【くぎ】氏に飲み込まれて名前だけ残り、逆に安宅氏は既存の武士たちを飲み込んで新たに勢力基板を獲得したとされる。どちらにせよ、他所から乗り込んで居座ったというよりは、既存勢力と折り合いをつけながら居場所を獲得したようだ。
 なお、安宅氏の方は日置川の河口の安宅港を拠点とし、自らが大きな船を運用するとともに、集まってくる人や物から利益を得る、いかにも海を押さえた勢力として発展していく。一方の小山氏は山の中に拠点を置いて、熊野の山々から木々を切り出して輸出することで利を得ていった。この点でも正反対の両勢力といえよう。

 南北朝時代、熊野水軍がどのように活動していたかの史料は多くない。しかしどちらかといえば、南朝側への活躍が多かったようだ。後醍醐天皇の皇子である懐良【かねよし】親王が征西将軍に任ぜられて九州に向かった際、伊予(愛媛県)の水軍拠点である忽那島へ、そしてまた薩摩へ送り届けたのが熊野水軍であったという。
 他にも、新田義貞の弟にあたる脇屋義助【わきやよしすけ】が四国へ渡るのを助けたり、薩摩の東福寺城を攻撃したりなど、熊野海賊は各地で活動している。実際に先ほどあげたような諸勢力のうちどの家がどこで活躍したかは判然としないし、例えば忽那島の忽那氏のような瀬戸内海の海上戦力もまとめて「熊野海賊」と呼ばれていた可能性もある。また、安宅氏が一時期北朝についていた(のちに南朝側へ移るが)こともわかっており、必ずしも南朝方一辺倒だったわけではない。とは言え、この時期の熊野海賊が広範囲に行動し、大きな存在感を持っていたことの証明にはなるだろう。

 戦国時代末期になると、熊野では新宮の堀内【ほりうち】氏が台頭してくる。新宮別当家の末裔であると共に、地元に基盤を持つ豪族でもあった。堀内氏は安宅氏や小山氏のような諸勢力をまとめ、当時勢力を伸ばしていた織田信長への心中を示し、領地所有を認められている。その信長が本能寺の変で死ぬと豊臣政権の大名として組み込まれ、朝鮮出兵にも水軍を率いて参加している。また、伏見城の築城のために材木を提供しているのは、熊野の材木とそれを運ぶための船を押さえている熊野の大名として相応しい振る舞いと言えるだろう。しかし、関ヶ原の戦いにおいて堀内氏は西軍についたため、改易処分を受けてしまった。
 安宅氏や小山氏も西軍についたため、揃って改易となった。時の当主(安宅信定【あたけのぶさだ】、小山氏次【こやまうじつぎ】)は揃って自害して果てたが、浪人となった信定の子の重春、氏次の弟の氏清【うじきよ】は大坂城へ入り、大坂の陣で幕府側と戦っている。ただ、末裔の安宅氏は紀州藩で熊野の山の管理を行い、小山氏(分家)は同じ紀州藩で船手与力として働いたことは、熊野海賊の在り方がわずかに残ったとは言えるかもしれない。

08戦国時代における各地の水軍、海賊について

 熊野海賊(水軍)以外の海賊や水軍などはどの地域にどんな風に分布していたのか。この項では比較的名の知られた勢力を、戦国時代に活躍したものたちを中心に紹介していく。中でも、近年非常に有名になった村上海賊については別項で扱うことにしたい。また、本文中でも触れるが、海賊(水軍)としてひとまとめにはしたものの、実際には海賊の定義には入らないものも多い。その点はご留意いただきたい。

各地の水軍・海賊たち各地の水軍・海賊たち

 まずは源平合戦の際に熊野海賊(水軍)と並んで源氏の貴重な海上戦力だった、伊予(愛媛県)の河野水軍から。古くは越智氏、後に本拠地を移して河野氏と名乗った豪族が、瀬戸内海の海賊を鎮圧するために追捕使に任じられ、後に武士化していく過程で海賊たちを水軍として取り込んだものと思われる。
 河野氏は南北朝時代には足利尊氏に味方して活躍し、伊予守護の地位を与えられて守護大名に発展していく。ところが室町時代から戦国時代にかけては一族の内部対立、家臣団の反発、周辺勢力からの圧迫が激しく、飛躍できないまま衰退していく(一方、戦国時代になって河野氏と結びついた海上戦力としては、周防・伊予の間に浮かぶ防予諸島の忽那【くつな】氏がいる)。村上水軍のうち来島村上水軍も元々は河野氏が傘下に収めていたが離反されてしまい、ついに戦国時代末期、豊臣秀吉の四国征伐で滅亡する。
 他にも瀬戸内海やその近辺にはさまざまな海上戦力が存在し、諸大名や国衆と結びついて水軍として活躍した。因島の西隣・生口【いくち】島の生口氏、対岸の小早川氏と結びついた乃美【のみ】氏は毛利水軍となった。安芸灘の多賀谷【たがや】氏は九州二強の一角・大内氏の水軍として働いたが、大内氏の滅亡を受けて毛利水軍に吸収される。

 また、九州の大友氏は国東半島の岐部 ・富来【とぎ】・櫛来【くしく】氏や渡辺氏、佐賀半島以南の若林氏、臼杵【うすき】氏、津久見【つくみ】氏、薬師寺【やくしじ】氏、佐伯【さえき】氏らを水軍として抱えていた。さらに肥前(佐賀県)の松浦【まつら】地方には嵯峨【さが】源氏の末裔に地元の武士たちの血も混じった松浦党と呼ばれる雑多な集団が住んでいて、水軍・海賊的な性質を持った。戦国時代にはその中の平戸松浦氏が周辺諸勢力を統合して大名化し、豊臣秀吉の傘下に入り、江戸時代を通して残っている。
 これらの瀬戸内海や九州近辺の海上戦力は(村上水軍を除いて)「水軍」には数えられるものの、別項で紹介した通行料の徴収などは行わなかったため、海賊と言えるかどうかは難しいところがある。

 織田信長・豊臣秀吉の水軍として活躍したのが紀伊(三重県)の九鬼【くき】氏である。先祖については諸説あり、熊野別当の血を引くともいう。出発点からいって、熊野水軍の一派と言っていいだろう。14世紀半ばに志摩へ移り、やがて伊勢へも進出した。
 九鬼氏にとって最大の転機になったのが戦国時代後期、織田信長による伊勢進出だった。時の当主・九鬼嘉隆は織田傘下に入り、以後織田水軍(信長死後は豊臣水軍)を代表する海上戦力として数々の戦いに参加し、戦功を上げている。関ヶ原の戦いでは嘉隆が西軍について自害することになるも、息子の守隆は東軍についたため家としては存続。しかし伊勢からは離れることになり、一般的な近世外様大名として江戸時代を通して続いた。なお、この九鬼氏も史料上で海賊的行為(通行料の徴収など)が見られず、水軍ではあったろうが厳密には海賊とはいえないと言われている。
 さて、その九鬼氏は広く見れば伊勢水軍――伊勢や熊野などへ向かう海上交通のルートに発展した海賊・水軍――の一部で、他にもいくつかの小規模勢力があった。そのうち、九鬼氏によって伊勢・志摩地域を追われた向井【むかい】氏・小浜【おばま】氏は甲斐武田氏配下となって武田水軍を形成。この武田水軍はもともと海のない山梨・長野に勢力を広げる武田氏のものだけに、旧今川の水軍や、北条水軍からの寝返り者などが加わる急造のもので、向井・小浜の役割は大きなものであったろう。その武田氏が滅びると徳川氏の水軍に収まった。
 彼ら徳川の水軍は、江戸幕府においては船手頭(御船奉行)とその配下の水主同心らになり、幕府の船を用いる役目を与えられた。その筆頭である向井氏の名は、今でも日本泳法十二流派のうちのひとつ「向井流」に残っている。
 織田(豊臣)水軍や武田(豊臣)水軍のライバルになったのが、伊豆を根拠地とする北条水軍である。土肥【とい】の富永氏や田子【たご】の山本氏などは北条氏の初代・北条早雲が伊豆へ攻め込んだ際にその傘下に入り、以後北条水軍の中心的位置を占めるに至った。富永氏は丸山城、山本氏は田子城と水城に籠って海からの攻撃への防衛戦を張ったが、豊臣秀吉による北条攻めの際にそれぞれ攻め落とされてしまっている。
 ちなみに、この北条水軍の中に梶原氏という一団がいるのだが、彼らは伊豆出身ではない。元は紀伊で、ルーツを辿ればおそらく熊野海賊の一派であろうと考えられる。伊豆の長浜城を拠点にしつつ、紀伊・熊野への想いを強く抱えていたようで、主君である北条氏に対して「紀伊に帰りたい」と申請し、北条氏が「再来年には許すが、その前に合戦があるのでそこまで待つように」と返事した手紙が残っている。この「帰りたい」が傭兵的な契約を切っての完全帰国なのか一時的な帰国なのかはわからないが、操船という特殊技術を持つ水軍らしいエピソードと言える。

09村上水軍と熊野水軍

 村上水軍(海賊)。来島【くるしま】(伊予)・因島【いんのしま】(備後)・能島【のしま】(伊予)と 3つの家に分かれ、瀬戸内海に広く勢力を広げた彼らは、おそらく、日本の水軍(海賊)としては一番有名な集団なのではないか。和田竜の小説『村上水軍の娘』が本屋大賞を受賞するなどヒットしたし、大河ドラマなど歴史エンタメで毛利氏が主軸になれば必ずクローズアップされることになるからだ。
 この3つの家は同じ「村上」の氏を名乗り、氏族をひとつにすると主張しているが、明確な根拠史料は存在しない。「むらぎみ」(浦を支配する者)が村上に変わって苗字になり、ルーツの違う人々がその名前をつながりとしてグループ化したという説もあり、説得力がある。
 14世紀頃に活動を開始したと思われる彼らは、いわば熊野海賊の後輩ということになる。瀬戸内海に古くから基盤を持つ河野氏の水軍であった一方、高度な自由さを持って遣明船の護衛や通行料の徴収、倭寇への参加(組織ぐるみでの参加を示す資料はないようだが、個人での参加は否定できない)などを行う、典型的な海賊でもあった。

 来島村上は来島通康の時に大きく勢力を伸ばした。彼は河野道直の娘婿であり、家臣団の反対によって後継にはなれなかったものの、河野一族として家中に重きをなしたのだ。また、通康の活躍として歴史上有名なのは、厳島の戦いで安芸(広島県)の毛利氏に味方して勝利に貢献し、毛利が中国地方の覇者になる道を開いたことであろう。この戦いでは「村上水軍が味方した」として有名だが、他の家は実際に参加したかどうか定かではない。しかし通康の水軍が参加したことについては確かな史料が残っている。
 因島村上は室町時代から中国地方で広く守護を務めた山名氏と関係を持ち、戦国時代に入ってからも山名氏や大内氏とつながりがあった。特に村上吉充【よしみつ】の時に小早川氏・毛利氏との関係を深めた。備後の鞆【とも】も勢力範囲であり、足利義昭が織田信長によって京都から追放され鞆へ流れて来た際にはその警護・監視も大きな役目になった。
 そして、三島村上の盟主的存在であったのが、能島村上である。彼らは一応河野氏の影響下にあったはずだが、実際にはさまざまな大名・国衆との関係性を持っていた。戦国時代後期、能島村上の当主は村上武吉【たけよし】で、庶家の出ながら本家筋を倒して家督を得た下剋上の人であった。武吉もやがて他の村上家と同じく毛利氏との関係を深めていくが、一方で彼らと敵対する家に味方することもあって、一時的とは言え毛利から攻撃された時期もある。

 織田信長による西日本への進出は、村上水軍の 3家にとっても大きな出来事だった。それぞれに決断を求められることになるのだ。
 3家のうち、来島村上は毛利を見限った。1582年(天正10)織田軍団の中国方面司令官・羽柴秀吉の誘いに乗って織田についたのだ。当然、毛利の激しい攻撃にさらされたが凌ぎ切り、織田政権を継承した豊臣政権において大名に取り立てられた。
 残り二家はあくまで毛利の味方をする道を選んだ。特に能島村上は 1576年(天正4)の第一次木津川口の戦いで、石山本願寺への物資補給路を閉鎖する織田水軍との戦いにおいて毛利水軍の主力として参加。織田の船を全て焼く大戦果をあげた、と伝わる。
 なお、この復讐戦として織田が挑んで来たのが 2年後の第二次木津川口の戦いで、織田水軍は「鉄甲船」とも呼ばれる鉄張り装甲の大安宅船によって毛利水軍を蹴散らしたとされている(近年の研究では鉄甲船の革新性にも否定意見が強いようだが)。この時に毛利水軍の中核を占めたのはもちろん村上水軍であったろう。一方、織田水軍を率いたのは九鬼嘉隆の水軍で、伊勢・志摩に勢力を広げていた彼らのルーツを辿れば熊野海賊(水軍)に至る。かたや河野氏の海賊にルーツを持つ瀬戸内海の水軍、かたや熊野海賊にルーツを持つ東日本の水軍というわけで、どちらも源平合戦で源氏方についたルーツがある両者がぶつかり合っているのは興味深い。
 とはいえ、そんな彼らが大名の水軍であると同時に海賊としてある程度自由に地域を支配できた期間も、もう残りが長くなかった。九鬼氏ら織田水軍、および来島村上はもちろんのこと、能島・因島両村上もその主人である毛利氏ごと支配下に取り込んだ豊臣秀吉が、1588年(天正16)に海上賊船禁止令を出したのである。こうして海賊行為――すなわち、海を行く船から通行料を徴収することができなくなった彼らは、もはや武士として生きていくしかない。ただ、まだ天下が落ち着いたとはいえず、活躍する場所はあった。文禄・慶長の役(朝鮮出兵)には水軍として動員され、活躍している。
 それも関ヶ原の戦いまでだ。来島村上は豊後の内陸地へ移され、江戸時代を通して大名として残る。そして能島・因島村上は長州藩毛利家に船手組として仕えるようになった。こうして海賊の歴史は終わったのである。

榎本 秋

執筆者紹介

榎本 秋

歴史作家、時代小説作家、出版プロデューサー

1977年東京生まれ。2000年より執筆の仕事をはじめ、07年に初の単著『戦国軍師入門』(㈱幻冬舎)を刊行。同年、榎本事務所を設立してからは、児童向け『学研まんがNEW日本の歴史』全12巻(㈱学研プラス)のマンガ原作担当ほか、プロデューサーとして当人ならびに榎本事務所の著書、編集書籍約500作品に関わる。また福原俊彦名義で時代小説も執筆する。株式会社榎本事務所代表取締役会長。日本児童文学者協会常任理事。

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